1963年の暮れ、アメリカのサンディエゴで、17歳の高校生が眠らずにどこまでいられるかを確かめようとしていた。科学展のための実験だった。コインを投げて負けたランディ・ガードナーが眠らない役になり、残りの2人が交代で見張りについた。
最初は記録への挑戦だったはずだ。けれど日がたつにつれ、彼の見る世界は少しずつずれていった。この出来事は、眠りを削ることがどれほど体と心を変えるのかを考える入り口になる。眠らないでいると、人には何が起きるのか。なぜ眠りは簡単に削れないのか。
世界が静かにずれていく11日間
記録によると、2日目には目の焦点が合わなくなり、3日目には些細なことで不機嫌になった。4日目、道端の標識を人だと思い、自分は有名なフットボール選手だと思い込んだ。5日目には部屋の前から静かな森へ続く道が見えた。6日目には話す速さが落ち、身の回りの物の名前が出てこなくなった。9日目になると、文を言い始めても最後まで言い終えられないことが増えた。10日目、ラジオの司会者が自分を笑い物にしようとしていると疑い始めた。そして11日目、顔から表情が消え、声は抑揚のない平らなものになった。
ところが同じ10日目、見に来た眠りの研究者とピンボールをすると、勝ったのは彼だった。研究者は、心を病むようなことは起きなかったと書き残している。外から見える姿と、内側で進む変化は、必ずしも一致しない。眠りの不足は、派手に崩れるより先に、少しずつ世界の見え方や感情の反応を変えていくのだろう。
眠りを奪い続けた動物が示したこと
ランディは11日間、264時間起き続けたあと、病院で14時間あまり眠り、体に悪いところは見つからなかった。だが、眠らせずに置いたネズミは2週間から3週間で死ぬか、死ぬ寸前まで弱った。人では確かめられない問いに、動物の実験が一つの答えを示している。
水を張った浅い水槽の上に丸い円盤を置き、眠りかけると円盤が回る仕組みでネズミを眠らせない実験では、眠れなかったネズミはたくさん食べるようになったのに痩せていき、毛並みは荒れ、尻尾と足の裏に傷ができた。体温は初めに上がり、やがて下がった。死因を詳しく調べても、はっきりとは見つからなかった。ただ、途中で眠らせてやると回復したという。
さらにハエを使った研究では、眠れなくなったハエの腸に活性酸素がどんどん溜まっていた。活性酸素は周りを傷つける物質だ。これを打ち消す物質を餌に混ぜると、ほとんど眠らないまま普通に近い長さを生き延びた。マウスでも、眠りを奪うと腸にだけ活性酸素が増えたと報告されている。眠らずにいると体の中に負担が溜まり、片付かなくなる。眠りはその片付けと深く結びついているらしい。ただし、なぜ腸に溜まるのか、人でも同じことが起きるのかはまだ分かっていない。
眠っている脳で進む掃除と整頓
眠っている間、脳の中では何が片付けられているのか。生きたマウスの脳を顕微鏡で覗いた研究では、眠りに入ると細胞と細胞の隙間が起きている時より6割も広がり、脳を浸す液が流れ込みやすくなった。アルツハイマー病に関わるタンパク質が、眠っているマウスでは起きているマウスの2倍の速さで片付いたという。
ところが2024年、別の測り方で調べ直すと、眠っている時の片付けは速くなるどころか大きく落ちていた。同じ脳でも測り方によって答えが逆になる。まだ結論は出ていない。
片付けのほかにも、眠りが脳を整えている手がかりはある。神経と神経のつなぎ目を電子顕微鏡で測った研究では、眠った後のつなぎ目は起きていた後より18%ほど小さくなっていた。強まりすぎたつながりを、眠りが整え直しているのかもしれない。眠りは単なる休息ではなく、脳の状態を翌日に持ち越さないための時間なのだろう。
眠気の感覚は、実際の疲れより遅れる
眠りを少しだけ削る暮らしを続けると、人には何が起きるのか。35人の大人が研究所で14日間過ごし、寝床にいられる時間を8時間、6時間、4時間の3つに分けた実験がある。毎日、画面に光が出たらすぐボタンを押す検査で、注意の抜け落ちを調べた。
6時間の組は日を追うごとに抜け落ちが増え、2週間後には一晩丸ごと眠らなかった人と同じくらいまで落ちていた。4時間の組は、2晩眠らなかった人と同じだった。ところが本人たちの眠気は最初の数日に強まったあと、ほとんど変わらなかった。注意力は落ち続けているのに、本人はそのことに気づいていなかったのである。
起き続ける時間は、酒にもたとえられる。朝7時に起きた人なら、夜中の0時には、画面上の目印を追いかける作業の成績がほろ酔いの人と同じくらいまで落ちたという。一晩眠らずに朝を迎えると、さらに下がる。眠気を感じないから大丈夫、とは言い切れない。感覚の方が、実際の衰えに追いついていないだけかもしれない。
心の動きも変わる。35時間ほど起き続けた人は、不快な写真を見ると脳の扁桃体という場所が6割ほど強く反応した。怒りや恐れに関わる扁桃体を普段抑えている前頭前野とのつながりが弱まっていた。11日目の少年が記者たちにきつく当たったのも、この働きと重なって見える。
眠りは脳だけのものではない
眠りを削れないのは人だけではない。長い時は10日も海の上を飛び続ける軍艦鳥は、飛びながら眠っていた。脳の片側だけ眠ることもあれば、両側で眠ることもあった。飛行中の眠りは24時間で42分ほどと、陸上のごくわずかだ。それでも眠りをなくしはしなかった。イルカも脳の片側ずつ眠る。
脳を持たない生き物にも、眠りに似た状態はある。クラゲは夜になると脈打つ回数が減り、刺激への反応も遅くなる。夜に休ませないでおくと、次の日の昼は動きが鈍った。ヒドラにも眠りが見つかり、眠りを奪うと細胞の増え方が落ちた。眠りは脳が生まれるより前から、生き物の体にあったのかもしれない。
眠らないでいられる時間を数えると、自分の限界を知った気になる。けれど、眠気の感覚はあてにならない。体の内側では、気づかないうちに負担が溜まり、脳のつながりや注意力が少しずつ変わっている。眠りは弱さではなく、体と心を翌日へ持ち越すための、古くからある仕組みなのだろう。夜更かしのあと、自分はまだ大丈夫だと思えること自体が、眠りの不足による錯覚の一つかもしれない。