「日本人は集団主義」という通説の揺らぎ
日本人は集団主義で、自分の考えより集団の和を大切にする。アメリカ人はその反対の個人主義。この考えは長い間、教科書にも載ってきた。だが、1999年に日本の心理学者たちが実際に日本人とアメリカ人を比べた研究を集めて検証したところ、意外な結果が出た。集まった15本の研究のうち、14本は「日本人の方が集団主義的」という結果になっていなかった。残る1本も、集団主義という言葉の普通の意味とはあまり関係のない内容だった。
その後も研究は集められ続けた。比べた研究は43件。差がなかったのが24件、アメリカ人の方が集団主義的だったのが13件、日本人の方が集団主義的だったのはわずか6件だった。「日本人は集団主義」という通説に合う結果は、43件のうち6件だけだったのである。
人に合わせる心を直接測る実験もある。線の長さを当てるだけの簡単な問題で、周りの全員がわざと間違った答えを言う。アメリカで行われた8つの実験では、周りに合わせて間違えた割合は平均25%。日本人で行われた5つの実験の平均も25%だった。見知らぬ人ではなく仲間の前ならどうか。同じ大学のラボに所属する学生140人で実験を繰り返した研究でも、日本人は仲間の中でアメリカ人より多く合わせることはなかった。ただし、1984年には同じ部活の仲間の前で日本人がよく合わせたという報告もあり、決着はついていない。
周りはよく見るけれど、周りに合わせるとは限らない。それなら、私たちが日常で感じているあの「空気」は、どこから来るのだろうか。
5本のペンが示したこと
手がかりになる実験がある。参加のお礼に5本のペンから1本を選んでもらう。4本は同じ色で、1本だけ違う色だ。アメリカで行われた実験では、珍しい色を選んだのはヨーロッパ系のアメリカ人で74%、東アジア系の人では24%だった。東アジアの人は周りと同じを好む、と説明された。
ところが、北海道の大学の研究者たちが日本とアメリカの参加者でこの実験を繰り返したところ、面白いことが起きた。何も言わずに選んでもらうと、日本人は多い色を選んだ。しかし、「あなたは5人のうち最初に選ぶ人です」と一言伝えると、アメリカ人も日本人と同じように多い色を選んだ。反対に「5人のうち最後に選ぶ人です」と言われると、日本人もアメリカ人と同じように珍しい色を選んだ。
研究者たちはこう考えた。日本人は何も言われないと、自分の後に選ぶ人がいると思って選んでいる。珍しい1本を取れば、後の人が困るかもしれない。その目を気にして、多い色を取るのだと。周りと同じを好んでいたのではない。後から来る人の目を、先に読んでいたのである。
空気を読むとは、心の好みではなく、損をしないための身の守りなのかもしれない。大皿の最後の一切れに手を出さないとき、頭に浮かんでいるのは誰の顔だろう。自分の欲望よりも先に、誰かの困惑や不満を想像してしまう。それは「集団に合わせる性質」というより、目の前の場の先にいる誰かを予測する習慣に近い。
信頼ではなく安心で成り立つ社会
では、なぜそこまで後から来る人の目を気にするのか。手がかりの一つは、見知らぬ人への信頼の違いだ。日本とアメリカで調べると、見知らぬ他人を信じると答える人はアメリカの方が多かった。長く続く閉じた人間関係の中では、よそ者を信じる理由がない。その代わり、仲間の中での評判が何より大切になる。これを「信頼ではなく安心で成り立つ社会」と呼ぶ研究者もいる。
暮らしの形が心を作るという説もある。お米を作るには、水路の水を隣の田んぼと分け合い、田植えをみんなで揃える必要があった。中国で1162人を調べた研究では、お米を作ってきた南の人は、小麦の北の人より人とのつながりや全体を見る考えが強かった。県境を挟んだ隣の県同士でも同じくらいの差があった。研究チームがスターバックスの椅子を2つ寄せて通路を半分塞ぐと、椅子をどかして通った人は小麦の地域でおよそ16%、お米の地域ではおよそ6%だった。残りの人は椅子をそのままにして、体を細くして隙間を通り抜けた。
これは中国の研究であり、そのまま日本人の心に当てはめることはできない。ただ、同じ日本の中にも違いがある。1870年代から本州の人たちが移り住んで切り開いた北海道では、北海道で育った人や暮らす人は、幸せを自分でやり遂げたことと結びつけやすかった。その傾向はアメリカ人とほぼ同じくらいで、本州などの日本人にはあまり見られない傾向だった。自分の意思で新しい土地へ移り住んだ人の暮らしが、1人で立つ心を育てたのではないかと研究者たちは考えている。
心の癖は生まれつきではなく、暮らしの形と共に受け継がれるのかもしれない。そして、その暮らしの形は今も動いている。日本では離婚が増え、家族は小さくなり、子どもに他と重ならない名前をつける人が増えてきた。暮らしが変われば、空気も変わっていく。
空気は心の中にあるものではない
日本人はなぜ空気を読むのか。記録を並べてみると、「日本人は合わせる国民だ」という通説は、比べてみるとほとんど支持されなかった。見え方の違いも、追試では揺れている。残ったのは、ペンの実験の示唆だ。後から来る人の目があると思うとき、人は多い色を取る。それはアメリカ人も同じだった。
空気とは、心の中にある性質ではなく、後から見る誰かを思い浮かべたときに生まれるものなのかもしれない。会議で手を上げにくいのも、大皿の最後の一切れを遠慮するのも、そこに実際にいる人たちの顔だけでなく、その場の先にいる「誰か」の視線を想像しているからではないか。
今日、空気を読んだとしたら、それは誰の目を思い浮かべたときだっただろう。その問いを一度、静かに自分に向けてみると、自分が思っていたよりも多くの人の顔を、日々の選択の中に招き入れていることに気づくかもしれない。そして、その顔のいくつかは、もうこの場にはいない人かもしれない。空気は、目に見えない誰かとの関係の中で、たしかに存在している。