「快楽主義」と聞いて、欲しいものを次々に手に入れ、思い切り楽しむ生き方を思い浮かべる人は少なくありません。古代ギリシャの哲学者エピクロスが説いた快楽主義は、そのイメージとはかなり違います。彼が目指したのは、刺激を増やすことではなく、体に痛みがなく、心が乱されていない状態でした。だからこそ、欲望を満たすことよりも、欲望を整理することに力点が置かれます。
ここからは、エピクロスの『教説と手紙』で示された考えをたどりながら、現代の暮らしに引き寄せて考えてみます。なお、以下は彼の主張の紹介と、そこから読み取れる解釈です。心の不調を治す方法や、誰にでも当てはまる処方ではありません。
快楽主義という言葉が、先に連れてくる誤解
エピクロスは紀元前341年ごろ、サモス島に生まれました。父親は読み書きを教える仕事をしており、当時のギリシャでは社会的に軽く見られ、暮らしも楽ではなかったとされます。彼は12歳で哲学に触れ、18歳でアテナイへ出ます。
その時期は、アレクサンドロス大王の死と重なっていました。各地で反乱が起こり、やがて鎮圧され、多くの人が家族や仕事や住む場所を失っていきます。エピクロス自身も反乱側に立った者として自由を奪われ、亡命を余儀なくされたと紹介されています。
外の世界に自由や幸福を見いだしにくいとき、人は自分の内側に基準を求めます。エピクロス派とストア派は、そうした時代の空気の中から生まれた学派だと説明されます。禁欲を重んじるストア派に対し、エピクロス派は快楽を人生の目的に据えた点が対照的です。
欲望を3つに分けてしまう
エピクロスの議論で実用的なのは、欲望を分類してしまうところです。彼はまず、欲望を「無益なもの」と「自然なもの」に大きく分けました。
満たしても渇きが残る欲望
無益な欲望とは、富、名声、権力といった世俗的なものです。これらは満たされても、まだ足りない、もっと欲しいという渇きを生み続ける性質があるとされます。飲んでも飲んでも渇く水のように、達成が次の不足を連れてくるわけです。
自然だが、なくても生きていける欲望
自然な欲望はさらに二つに分けられます。ひとつは、豪華な食事、広い家、官能的な喜びのように、自然ではあるけれど必須ではないもの。ここで見落とされがちなのは、エピクロスがこの種の欲望を否定していない点です。むしろ生活に喜びをもたらすものとして認めていました。
土台になる欲望
もうひとつが、身の丈に合った食事、自分の暮らしに合った住まい、一緒にいて楽な友人、痛みのない健康な体といった、自然で必須の欲望です。豪華な食事や大きな家がなくても人は幸せになれる。だからこそ、こちらを先に整えておくべきだ、という順番の話になります。
快楽は「足す」より「差し引く」
エピクロスが考える快楽は、暴飲暴食や派手な遊びがもたらす刺激ではありません。肉体において苦しみのないこと、魂において乱されないこと。この二つの状態こそ快楽だと述べています。
肉体の苦しみがない状態はアポニア、心が乱されていない状態はアタラクシアと呼ばれます。どちらも「何かを得た」結果ではなく、「差し引かれた」結果としての静けさです。
たとえば、どんなに豊かで立派な家に住んでいても、体調が悪く心がざわついていれば、その暮らしを心から味わうことはできません。逆に質素でも、体が楽で悩み事が少なければ、そこには快楽がある。快楽を足し算ではなく引き算で捉える見方だと言えます。
選ぶ前に、損得を比べる
とはいえ、エピクロスは「心地よい方をいつも選べばよい」とは言いません。快楽は第一の善である一方、どんな快楽でも選ぶべきではない。ある快楽が、その何倍もの患いを連れてくることがあるからです。だから利益と損失を比べて判断する必要がある、と述べています。
この判断力を思慮と呼びます。仮の例として、目の前のドーナツを食べる数分の満足と、体に負荷をかけて数か月後に体型が変わったときの満足。どちらがより大きな心の平穏につながるかを、一度立ち止まって見積もる。これは快楽を我慢する話ではなく、快楽の総量を計算する話です。
また、運や偶然に任せて選び続けると、うまくいっている間も「いつか崩れるかもしれない」という不安がつきまといます。よく考えて選んだ人は、失敗しても原因を検証して次に進める。だから心が休まる。思慮が重視される理由はここにあります。
「これで十分」の線を引く
もうひとつのキーワードが自己充足です。自分の分相応のところで線を引き、それ以上を求めないこと。足るを知るという考え方に近いものです。
エピクロスは、贅沢を最も必要としない人が最も快く贅沢を楽しめる、質素な食事に慣れておくと健康になれる、という趣旨のことを述べています。これは倹約を美徳にする話ではありません。贅沢が手に入らない時期にも心が崩れないようにしておく、保険のような備えです。
エピクロスにゆかりのある言葉として「隠れて生きよ」が挙げられることもあります。ただし、この言葉をどう読むかは論者によって幅があり、人目を避けて閉じこもることだと単純に受け取るのは避けたほうがよさそうです。
この考え方が負担になるとき
欲望を整理する方向の工夫は、疲れや不安が強い時期にはかえって負担になることがあります。「欲を持たないほうがよい」と自分を責める材料にしてしまうなら、いったん距離を置いたほうがよいでしょう。
不安や落ち込みが長く続く場合、生活の工夫だけで抱え込まず、医療機関や相談窓口を頼る選択もあります。哲学の言葉は、そうした支援の代わりにはなりません。
今日の生活に置き換えるなら
エピクロスの快楽主義は、快楽を否定する禁欲でも、欲望を解放する享楽でもありません。体と心が乱されていない状態を土台にして、その上で何を楽しむかを選ぶ。順番を入れ替えない考え方です。
暮らしに置き換えるなら、まず睡眠と体調を整え、一緒にいて楽な人との時間を確保する。そのうえで、目の前の誘惑に対して「これは数時間後の自分を楽にするか、それとも苦しくするか」と一度問い直してみる。そのくらいの粒度で試すのが現実的です。合うかどうかは、置かれた状況や体調によって変わります。