「同じものを見ているのに、どうして話が噛み合わないのだろう」。この問いに対して、生物学の側から一つの見方を提示したのが、ドイツの生物学者ヤコブ・フォン・ユクスキュルです。彼が唱えた「環世界」という考え方を使うと、私たちは同じ地球に住みながら、それぞれに違う世界を生きている、と捉えられます。ここではその中身を、日常の人間関係に引き寄せながら整理します。
環世界とは——「環境」と「生きている世界」は違う
私たちはふだん、「世界は一つで、誰もが同じようにそれを見ている」という前提で会話をしています。ユクスキュルはその前提を疑い、生き物はそれぞれの感覚と行動に応じた独自の世界を持っていると考えました。この、その生き物にとって意味を持つ世界のことを「環世界(Umwelt)」と呼びます。
周囲に物理的に存在するものを「環境(Umgebung)」と呼ぶなら、環世界はそれとは別物です。同じ部屋にいても、ある人にとっては意味のある情報が、別の人には最初から存在しない。そういうことが起こります。
マダニの世界は、三つの信号でできている
ユクスキュルの著書でよく知られているのが、吸血性のダニであるマダニの例です。彼が紹介したところによれば、マダニのメスの環世界は、ごくわずかな刺激で成り立っています。
- 哺乳類の皮膚から出る酪酸の匂いを感じると、待っていた枝から落下する
- 獲物の毛の抵抗を感じると、毛のない場所を探して動き回る
- 皮膚の温度を感じると、針を刺して吸血を始める
実験では、マダニに味覚がほとんどないことも示されたとされます。つまり血の味は、彼女にとって「最後の晩餐」のようなものだというわけです。木の色も、風の音も、近くにいる他の生き物も、マダニの世界には現れません。三つの信号以外は、そもそも存在しないのです。
なお、ユクスキュルはマダニの行動を「獲物を待ち伏せする」と人間の言葉で説明しています。ただしこれは人間の側の言い方であって、マダニ自身に「待ち伏せしている」という感覚があるわけではない、という点も添えられています。
「刺激に反応する機械」で終わらせない
マダニの姿を見ると、生き物とは刺激に反応するだけの装置なのだろうか、という疑問が浮かびます。この見方を突き詰めたのが、哲学者デカルトでした。彼は動物を、思考や感情を持たない自動機械とみなし、人間だけが理性を持つとしました。心と身体を別のものとして扱う心身二元論です。
ユクスキュルはこの機械論的な生命観に異議を唱え、生き物を「世界を生きる主体」として捉え直そうとしました。ここから先は受け取り方にもよりますが、少なくとも、生物を歯車の集まりとしてだけ見る見方に一石を投じたことは確かです。
人間の環世界は、もっと重なり合い、もっとずれる
人間はマダニよりはるかに多くの情報を扱います。言葉、記憶、育った文化、その日の体調。扱える情報が多いぶん、「同じものを見ているはず」という錯覚も生まれやすくなります。
たとえば、会議での何気ない一言を思い浮かべてください。ある人はそれを励ましとして受け取り、別の人は評価や注意として受け取るかもしれません。空気の振動としては同じ音でも、意味づけは同じではありません。仮の例ですが、こうしたずれは日常のあちこちにあります。
すれ違ったとき、私たちは「相手が間違っている」か「自分がおかしい」かの二択に追い込まれがちです。環世界という視点は、そこに第三の説明を差し込みます。二人は違う地図を持って歩いている、という見方です。
それでも「人それぞれ」で済ませられない場面
ただし、この考え方を万能の免罪符のように使うのは危険です。安全に関わること、法律、締め切り、交わした約束など、共通の事実や合意が必要な領域では、「感じ方は人それぞれ」で終わらせると困る人が出ます。
また、相手の環世界を完全に理解することはできません。想像することはできても、その人の世界にそのまま入り込むことはできない。この限界は、環世界という考え方そのものが抱えています。だからこそ、違いを前提にしたうえで、確認し合う作業が必要になります。
日常で試せる、小さな関わり方
環世界の考え方を、今日の会話に持ち込むなら、次のようなことが挙げられます。いずれも提案であって、効果を保証するものではありません。
- 相手の言葉を、自分の解釈と切り離して一度受け取る。「つまりこういうことだよね」と決めつける前に、少し間を置く
- 「私はこう見えている」と、主語を自分にして伝える。相手の見方を否定せずに、自分の地図を示す
- 相手が何を手がかりに判断したのかを尋ねる。結論ではなく、そこに至った材料を聞く
一方で、合わない場面もあります。相手が一方的に決めつけてくる、何を言っても安全が脅かされる、といった状況では、違いを理解しようと努めるより、距離を取ることが優先されます。環世界の視点は、我慢を勧めるための道具ではありません。
世界は一つでも、見え方は一つではない
世界が物理的に一つであることは、おそらく間違いではありません。しかし、そこに意味を見出すときの見え方は、生き物ごと、人ごとに異なります。その前提に立つと、すれ違いは「どちらかが壊れている」という問題から、「地図が違う」という問題に変わります。
全部を理解し合う必要はありません。ただ、違いを違いとして置いておく余地が生まれるだけで、会話の緊張は少し変わります。噛み合わなさを感じたとき、相手の世界と自分の世界を一度並べて眺めてみる。それだけでも、同じ言葉の意味は少し違って見えてくるはずです。