夜九時半。仕事から帰ってソファに体を預けると、足元で飼い猫が丸くなって眠っている。猫は今日だけで十時間以上は眠っているはずなのに、まだ眠そうだ。ふと考える。人は人生のおよそ三分の一を眠って過ごす。九十歳まで生きれば、そのうち三十年は眠っている計算になる。三十年もの間、仕事もできず、好きな人と話すこともできない。それなのに、なぜ人は眠るのだろう。
当たり前すぎて普段は考えない。でもこの問いに、科学者たちは長い間はっきり答えられなかった。睡眠の研究が本格的になったのは、まだ七十年ほど前のことだ。ここ数十年で少しずつ見えてきたのは、眠っている間の体は休んでいるどころか、昼間とは違う仕事で忙しく働いている、ということだった。眠りには個人差が大きく、悩みが続くときは専門家への相談が大切だ。
眠気は、体内時計と眠気の砂時計から生まれる
夕方六時頃はむしろ頭が冴えていたのに、夜十時になるとテレビの話が入ってこなくなる。同じくらい疲れていたはずなのに、不思議だ。この眠気は、二つの仕組みの組み合わせで生まれる。
一つ目は体内時計だ。アメリカの睡眠研究者が、日光の届かないケンタッキー州の洞窟にこもり、一日を二十八時間にして暮らす実験をした。若い同行者の体は新しい一日に馴染んだが、研究者自身の体温は最後まで約二十四時間の波を守り続けた。時計も太陽もないのに、体は一日の長さを覚えている。これが体内時計だ。後の研究で、人の体内時計の一日は平均すると二十四時間十分ほどだとわかった。この少しのずれを毎日直しているのが朝の光である。光が目に入ると、脳の親時計に届き、針を今日に合わせる。
二つ目は、起きている間に脳の中へ眠気の元になる物質が少しずつ溜まることだ。脳が働いてエネルギーを使うほど、燃えかすのように増えていく。朝起きたとき、眠気の砂時計は空っぽだ。起きている時間が長くなるほど砂が溜まり、眠るとまた空っぽに戻る。スイスの研究者アレクサンダー・ボルベイは一九八二年に、この体内時計の波と、溜まっていく眠気の砂の組み合わせで眠気を説明した。夕方に頭が冴えていたのは、眠気の砂が溜まっていても、体内時計がまだ起きていなさいと強く押し返していたからだ。夜になって体内時計が押し返すのをやめると、溜まった砂の重みが一気にのしかかる。これが夜十時のまぶたの重さの正体だ。
寝る前のスマホは、夜の合図を弱めて時間を削る
ベッドに入ってから、ついスマホに手が伸びる。あと一本だけ動画を見ようと思い、気がつくと三十分が経っている。さっきまであんなに眠かったのに、なぜ目が冴えてしまったのか。
暗くなると、脳の奥からメラトニンというホルモンが出る。体に「もう夜ですよ」と知らせる夜の合図だ。メラトニンはいつも眠る時刻のおよそ二時間前から増え始める。ところが、目に光が入るとメラトニンは出にくくなる。特に青っぽい光は、昼間の空の色に近いため、目が朝の合図と受け取ってしまう。目には物を見るのとは別に、明るさを測る特別なセンサーがあり、それが青い光によく反応する。
画面の色を温かくするナイトモードにすれば安心かというと、それだけでは眠りはあまり変わらないという研究もある。光の色以上に大きいのは、中身と終わりのなさだ。ニュースに腹を立てたり、友達の投稿が気になったり、次の動画が楽しみだったり。心が動くたびに頭は起きる方向へ引っ張られる。本には最後のページがあるが、画面はどこまでも次を出してくる。眠りかけたところに通知の音や光が届けば、浅い眠りはそれだけで途切れてしまう。寝つきが十分遅れること以上に、見ている間に眠る時間そのものが削られていくことのほうが大きい。
昼間に自分の時間がなかった人ほど、夜にそれを取り返そうとして眠る時間を後ろへずらしてしまう。オランダの研究者たちは、これを「寝る時間の先延ばし」と名付けた。眠る時刻には生まれつきの個人差もあり、十代の頃は誰でも夜型にずれる。朝起きられない中高生が怠けているだけではない面もあるのだ。
眠りに落ちる瞬間、脳はスイッチを切り替える
目を閉じると、今日あった会話を思い出したり、明日の予定を考えたりする。うとうと仕掛けたそのとき、体がピクッと跳ねて目が覚めることがある。階段を踏み外したような感覚だ。眠りに落ちる瞬間を後から思い出せないのは、眠りが明かりのようにゆっくり暗くなるのではなく、スイッチが切り替わるのに近いからだ。
脳の奥には、起きる側と眠る側の二つの神経のグループがある。二つはシーソーのように押し合っていて、片方が勝つと一気にそちらへ傾く。だから眠りの境界は、意識が捉えられないほど急に訪れる。眠ろうと意識するほど眠れなくなるのは、起きる側の神経を刺激してしまうからかもしれない。眠りは、頑張って入るものではないらしい。
もし眠らないで済む薬があったら、飲みたいと思う人は多いだろう。毎晩の八時間が丸ごと自由になるのは魅力的だ。でも、眠っている間に体が昼間とは別の仕事をしているのなら、その八時間を手に入れる代わりに、何かを失うことになるかもしれない。まだ答えは全部見えていない。それでも今夜は、眠気が来たら素直に目を閉じる。それでいいのだと、猫の寝息を聞きながら思う。