たとえば、金曜日の夜、駅前の居酒屋。職場の同期との飲み会で、店内はグラスの音や笑い声でいっぱい。隣に座る同僚の話すら聞き返してしまうのに、ふと奥の席から聞こえてきたのは、密かに気になっている別の部署の人の声。話の内容まで妙にはっきり届き、自分の名前が出た気がして振り返ってしまう。そんな経験に心当たりはないだろうか。
騒がしい場所でも、なぜか好きな人の声だけがくっきり聞こえる。これは耳がよくなったからではなく、脳が音を選んでいるからだ。心理学では「カクテルパーティー効果」と呼ばれる。賑やかなパーティー会場でも会話相手の声を聞き分けられる現象に由来する名前である。
脳は音を選ぶフィルターを持っている
私たちは周囲のすべての音を詳しく聞いているわけではない。脳の入り口にはフィルターがあり、声の高さや聞こえてくる方向などを手がかりに、聞くべき声を選んでいる。ラジオのチューナーに例えるとわかりやすい。飛び交う電波の中から、ダイヤルを合わせた一つの曲だけがくっきり流れ、ほかは雑音として小さくなるイメージだ。
1950年代、イギリスの研究者コリン・チェリーは、左右の耳に別々の話を流す実験を行った。参加者は片方の耳の話だけを聞き、もう片方は聞かなくてよいと指示された。終了後、聞いていなかった方の耳の内容はほとんど覚えていなかった。話が英語からドイツ語に変わっても、逆再生されても気づかない人が多かった。一方で、声が男性から女性に変わると多くの人が気づいた。内容は遮断されていても、声の高さや感じといった大まかな音の特徴は届いていたのである。
心理学者ドナルド・ブロードベントは、この結果から脳のフィルター仮説を提唱した。音の高さや向きで聞く声を選び、それ以外を止めるという考えだ。ただし、このフィルターは完全に音を遮断するわけではない。後年の研究で、止められているはずの音が時々すり抜けてくることがわかってきた。
名前という特別な音
フィルターをすり抜ける代表が、自分の名前だ。1950年代後半、イギリスの心理学者ネヴィル・モレイは、聞いていない方の耳に流す話の中に参加者の名前を混ぜてみた。すると、およそ3人に1人が自分の名前に気づいた。ほかの言葉にはほとんど反応しなかったのに、名前のときだけ注意が向いたのである。
アン・トリーズマンは、フィルターは音を完全に止めるのではなく、弱めているだけではないかと考えた。自分の名前のような大切な言葉は、小さな音でも気づけるように脳内で準備されているという見方だ。名前は眠っている間も特別で、フランスの研究では、眠っている人の脳は他人の名前より自分の名前に異なる反応を示した。赤ちゃんも生後4か月半ごろには自分の名前を好んで聞くようになり、生まれたばかりの赤ちゃんは知らない人の声より母親の声を好む。脳は早い段階から、大切な声を聞き逃さない仕組みを持っている。
聞き慣れた声はチューナーが合いやすい
好きな人の声がよく聞こえるのも、同じ仕組みで説明できる。カナダの心理学者イングリッド・ジョンズルードらの実験では、長年連れ添った夫婦を対象に、二つの声が同時に流れる中で片方の内容を聞き取ってもらった。聞き取る声が配偶者の声の場合、知らない人の声よりもはっきり聞き取れた。反対に、配偶者の声が邪魔な音として流れるときは、それを無視して知らない人の声を聞くのも容易だった。聞き慣れた声は、聞きたいときは拾いやすく、聞かなくていいときは流しやすい。脳のチューナーがその声に合わせやすくなっているのである。
理由は大きく二つある。一つは、何度も聞いているからだ。声の高さや話す速さ、言葉の癖を脳が詳しく覚えており、少し聞こえただけで残りを補える。もう一つは、その人が自分にとって大切だからだ。気になる人の声は、名前と同じように聞き逃したくない合図になる。好きな人がいると、その人の名前や顔、声に自然と注意が向きやすくなる傾向もいくつかの研究で示されている。
先ほどの居酒屋の場面で、奥の席の彼の声だけが聞こえたのは、この二つが重なったからかもしれない。何度も聞いていて、しかも気になる人の声だった。耳が特別によくなったのではなく、気持ちが先にチューナーを合わせているのである。
注意のスポットライトと疲れ
アメリカの研究者エドワード・チャンらの実験では、二つの声が同時に流れるとき、脳の活動には注意を向けた方の声の特徴がくっきり現れ、もう一方の声はほとんど現れなかった。耳には両方の声が同じように入っているのに、脳の中で選んだ声だけが大きく映し出される。注意はスポットライトのようなもので、当てた声が明るく浮かび上がり、周囲は暗がりに沈む。
ただし、うるさい場所で一つの声を追い続けるのは脳にとってかなりの労働だ。賑やかな飲み会の後でぐったり疲れるのは、この聞き分けのせいかもしれない。また、聞き慣れた声だからといって必ず有利とは限らない。長く一緒にいると、相手の声を聞いているつもりで聞き流してしまうこともある。「何度も言ったのに」が夫婦の会話で起きる背景には、聞き慣れた声を他の音と同じように流せてしまう脳の働きがあるのかもしれない。
なお、聞こえにくさや耳鳴りが続く場合は、一人で我慢せず耳鼻咽喉科などで相談したほうがよい。ここで述べた聞き分けの傾向は、多くの人に見られる心理的な働きであり、聴覚の問題を自己判断する材料にはならない。
好きな人の声だけが騒がしい場所で聞こえるのは、恋の魔法でも偶然でもなく、脳が大切な音を選んでいるからだ。その選択は、名前や聞き慣れた声、注意の向け方によって左右される。聞こえているようで聞いていない声、聞いていないようで届いている声。日常のざわめきの中で、自分の脳が何にチューナーを合わせているのかを考えてみると、気持ちのありかが少し見えてくるかもしれない。