新卒の初任給が30万円に上がり、自分は課長手当を入れても29万8000円。そんな出来事が起きたとき、胸の奥がざわつくのは自然なことです。
先に結論を書きます。このとき生まれる怒りや虚無感は、心が弱いから出てくるものではありません。「頑張った分だけ報われる」という前提が崩れたときに起きる、ごく普通の反応です。ただし、怒りのまま辞めることも、感情を殺して我慢し続けることも、長い目で見て自分を守る選択にはなりにくい。順番としては、何に傷ついたのかを言葉にし、社内評価と市場評価を分けて確かめ、それから動き方を決める。ここでは、その順番を具体的に考えます。
給与の逆転が「努力の否定」に感じられる理由
給与は金額であると同時に、会社からのメッセージでもあります。いくら評価されているのか、どれだけ必要とされているのか。その答えが数字で示されるから、金額そのものより「扱われ方」に傷つきます。
少し極端な仮の例を置いてみます。23年勤めて課長になった47歳の社員が、入社2年目の社員の初任給が自分を超えたと知る。しかも、その社員の教育係を任される。この状況で「では頑張ろう」と思える人のほうが少ないでしょう。
背景には、人材を確保するために初任給を引き上げる企業が増え、既存社員の給与との逆転が起きているという事情があります。新卒の初任給を上げる決定は、在籍している社員の給与を下げる決定ではありません。しかし受け取る側には、自分の23年が軽く扱われたように見えます。ここで起きているのは、能力の比較ではなく、報酬の設計と感情のズレです。
「静かな退職」という名前がつくと、少し楽になる
やる気を失った状態は、以前なら「やる気がない」「腐った」と、個人の性質のせいにされがちでした。今は「静かな退職(クワイエット・クイッティング)」という名前で呼ばれます。求められた仕事はきちんとこなす。評価につながらない以上のことはしない。そういう働き方です。
名前がつくと、少し楽になります。自分だけがおかしいわけではないと分かるからです。正社員の4割以上が同じ状態にあるという調査結果が紹介されることもあります。数字は調査の対象や出典によって幅があるので目安ですが、少なくとも珍しい現象として扱われていることは確かです。
ただし、静かな退職は万能の防御ではありません。新しい仕事を覚えない、人とのつながりが細る、結果として社外に出たときの選択肢が減る。そういう副作用もあります。気持ちを守るための一時的な調整としては機能しますが、何年も続けると、自分で自分の市場価値を下げてしまうことがあります。合う人と合わない人がいる、というのが実情です。
怒りを外に撃ちたくなる夜
仮の例として、52歳の部長が退職後にSNSで会社の内部事情を公開し、一時的に注目を集めたものの、転職先で危険人物として扱われ、法的措置をほのめかされた、という筋書きを考えてみます。創作の例ですが、怒りが一気に噴き出したときの落とし穴をよく表しています。
怒りを感じること自体は正常です。問題は、その怒りをどこに向けるか。状況によっては、退職後の情報公開が守秘義務や信用に関わる問題に発展することがあります。被害者だったはずの自分が、加害者の側に立たされる。すっきりしたのは一瞬で、その後始末だけが残る。これは割に合いません。
怒りは燃料にはなりますが、ハンドルにはなりません。行き先を決めるのは、怒りが落ち着いてからでも遅くありません。
社内評価と市場評価は別物
「23年の経験があるから外でも通用する」。そう信じたくなる気持ちは分かりますが、社内での評価と、外から見たときの評価は同じものではありません。社内で「できる人」と呼ばれていたのは、社内の人間関係や商習慣を知っていたからかもしれない。外に出れば、その前提は一度リセットされます。
転職サイトの推定年収は参考程度の目安にすぎませんが、自分の値段を客観的に見るきっかけにはなります。あわせて確認したいのは、職務経歴を数字で語れるかどうかです。売上の何割を担ったのか、何人をまとめたのか、どんな課題をどう動かしたのか。感覚で分かっていても、数字にできないと書類では伝わりません。
年齢の壁についても触れておきます。40代後半以降、書類選考の通過率が下がるという指摘は以前からあります。応募者管理システムで年齢による絞り込みが行われているという話も聞かれます。能力と関係のないところで落とされる経験をすると、心が折れます。ただ、これは自分の実力がないという話ではなく、選考の入口に別のフィルターがあるという話です。対策の立てようはあります。
辞める前に、決めておきたいこと
怒りのまま動き出す前に、次の項目を一度書き出してみてください。すべてを完璧にする必要はありません。分からないところが分かることが、最初の成果です。
- スキルの棚卸し:業務を「誰にでもできること」「自分にしかできないこと」「数字で示せること」に分けて書き出す。
- お金の確認:貯金と退職金で、生活できる月数を数える。転職活動には思ったより時間がかかります。
- 実績の数値化:担当した売上、予算、人数、期間をメモに残す。面接の前に用意しておくと楽になります。
- 小さく試す:いきなり退職届ではなく、転職エージェントとの面談や、興味のある求人への応募から始める。
- 社内の別の道を確認する:異動希望、社内公募、副業制度など、辞めずに変えられる範囲を先に調べる。
これらは「必ず転職がうまくいく」ための手順ではありません。準備は、辞めるためではなく、辞めるかどうかを自分で決めるためにあります。決める材料がそろっていれば、残る選択も、前向きな選択になります。
この話が当てはまらない人もいる
給与の逆転が起きていない会社もあります。逆転があっても、評価や裁量で納得できている人もいます。静かな退職を選ぶことが、その人にとって最適な時期もあります。どの選択が正しいかは、置かれた環境と、自分が何を大事にしたいかで変わります。
一方で、眠れない、食欲がない、涙が出るといった状態が続いているなら、仕事の話より先に、心と体の回復を優先してください。産業医や社内の相談窓口、外部のカウンセリングなど、使える窓口はあります。ひとりで結論を出す必要はありません。
辞めるか残るかの前に、自分の値段を知る
給与の逆転に傷ついたとき、目の前には「怒って辞める」か「我慢して残る」かの二択しか見えません。けれど実際には、その前にやることがあります。自分の経験が外でどう評価されるのかを確かめ、数字に変え、生活できる期間を計算する。そのうえで決めた結論は、怒りに押された結論より、ずっと長く自分を支えてくれます。
辞めることがゴールではありません。辞めても残ってもやっていける状態を作ることが、この問題の本当の出口です。